今僕が最もリスペクトしているアーティスト、永原真夏さんの曲です。
https://natalie.mu/music/news/264617 より
いきなり話は逸れますが、「歌手」とほぼ同義で用いられる、日本語としての「アーティスト」という言葉が好きではありません。
アートを感じない、というかそれを目的としない歌手だってたくさんいる。そういう人まで総じて"art"という括りの中に入れることに違和感を感じます。
そのことを前提に、永原真夏さんを語らせてください。
この曲を知るきっかけとなったツイートがあります。
「あそんで」とか「楽しく」とか、腹の底から血を吐く勢いで作っているので、それらをお気楽と舐められては困る。作品には文脈がある。
— 永原真夏 (@manatsu_injapan) 2018年2月13日
食とは?労働とは?生活とは?
そしてその中で、音楽とは????
戦う生活労働者たちに捧げるべく、寄り添うべく、最高にノリノリなブルースをつくりました。
ファミマで「あそんでいきよう」が流れているんだけど、この曲は生活労働者たちを心底リスペクトした曲なのに、こっちは働いてるんだから遊んでいられないんだよみたいな感想もあって難しい。
— 永原真夏 (@manatsu_injapan) 2018年3月25日
根底はあそんでられないからマジでむかつく、っていう曲です。詩はいつもなにくそ根性で絞り出している。
「あそんでいきよう」というタイトルの曲を、「腹の底から血を吐く勢いで」「なにくそ根性で絞り出す」この人は一体何者なのか??そう思うとどんどん興味が湧いてきました。
この「あそんでいきよう」という曲は、アルバム「GREAT HUNGRY」に収録されている曲です。1曲目の「ダンサー・イン・ザ・ポエトリー」を筆頭に、それまでの"バンドのヴォーカリスト"としての視点とは異なる、"表現者"としての真夏さんの感覚に触れることができます。
「ダンサー・イン・ザ・ポエトリー」は、楽曲の公開を前に活版印刷の詩を発表するという、"音楽"としては異例の売り出し方がされました。
なぜ冒頭で「アーティスト」という単語に対して言及を加えたか?
それは僕が、真夏さんの音楽のみならず、その表現すべてにartを感じることができる存在だと考えているからです。
CDが売れない時代に、もはや過去の存在となりつつある「歌詞カード」を、それも活版印刷という手法で敢えて世に送り出す。その心意気に惚れました。
ある日Twitterのタイムラインに流れてきた記事に心を奪われました。
正直半分くらい何言ってるかわからないんですけど、
気づけばエモーショナルな気持ちに支配されているこの感覚。
僕にとっては、現代アートの作品を見ているときの感覚と一緒だったのです。
人に何かを伝えたいときに、言語や文化が違っても、自分が大切にしているものをブレさせる必要はないんだなとそこで気づきました。大事なのは人間の感性だし、それを発する力も受け取る力も、舐めてはいけないなって。
自分も、腹の底から血を吐く勢いで表現することと向き合ってみたい。
そう思います。真夏さんのように。