「む」の境地

旅と音楽とまぜそばと

【まち歩きの視点1】覚えておきたい「駅⇔繫華街⇔ランドマークの法則性」

ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 個人旅行へ にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログへ にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 長野県情報へ

このブログではこれまで、日本全国、そして時には海外も含めて、様々な場所の旅やまち歩きについて触れてきました。まちにはそれぞれの個性がありますが、一方でそうしたまちの特性を「法則化」していくことで見えてくる面白さもあると考えています。

身近なまちを取り上げながら、記事を読んでくださる皆さんの住むまちでも使えるかもしれない「まち歩きの視点」を、様々なパーツから紐解いていきたいと思います。

そんな「まち歩きの視点」シリーズの1本目として取り上げるのは、主要駅、繁華街、ランドマーク(城、寺社仏閣など)の3要素が、比較してみると様々な都市で似たような並びをしているのが見えてくる、といった内容です。

地理好きの方にはよく知られたことかとは思いますが、ご存知ない方もいるかと思いますので、事例を挙げながら整理していきます。

まちの中で、駅はどこにある?

このシリーズ全体で共通する基本的な考え方として、まずはまち全体を少し広い視野で見てみましょう。あなたの身近なまちに当てはめてみても構いません。そのまちの主要駅は、まち全体から見て、どんな場所にありますか?

いくつかのまちについて、実際に地図を見てみます。

長野市(善光寺~権堂~長野駅)

まずは私の拠点、長野市から。これは説明するまでもないですが、善光寺の門前町として発展してきた街です。

その外郭には、善光寺の精進落としの場として栄えた鶴賀、ならびに現在も市民の買い物の場としてアーケード商店街なども存在する権堂があり、さらにその外郭に長野駅が位置する、という構造です。

善光寺~長野駅は約2km程度、権堂アーケードはちょうどその真ん中にあると言えます。

広島市(広島城~八丁堀~広島駅)

お次は広島市。こちらは安土桃山時代に築城された広島城を中心とした城下町ですが、その外郭に中国地方随一の繁華街、八丁堀を擁します。

こちらは少し回り込む形にはなっていますが、広島城~八丁堀~広島駅の三者を結ぶとやはり2km程度。八丁堀は広島駅・広島城のいずれからでもおおむね1km程度で、やはりほぼ中間と言える場所にあります。

茨城県土浦市(土浦城~桜町~土浦駅)

このような構造、大規模な都市のみならず、古くからの城下町などであれば多くの土地で見られる傾向になります。

私が高校時代を過ごした茨城県土浦市で見てみましょう。

土浦城跡(現在は亀城公園と呼ばれる)から土浦駅は1km強。その中間、700mほどの場所に繫華街・桜町があります。街の規模の違いもあってか距離は若干短めですが、順序や距離感のバランスなどはやはり近しいものがあります。

このような構造は全国各地で見られます。このように古くからの街のランドマーク(寺社仏閣や城)と現代の中心駅の距離は2kmほどで、その中間地点に繁華街が存在するというのを一つの法則として考えられます。ぜひ頭に入れておいてくださいね。

まちが広がる過程

では、どうして同じような構造が各地で見られるのか。

細かく見ていけば理由はたくさん考えられると思いますが、ざっくり言えば「江戸時代以前から街が成立していたところに、明治以降に鉄道を通そうとしたから」というところになります。

栄えている出口はどっち?

その証拠に、ある程度大きな駅であっても、東西(あるいは南北)どちらかの出口は「あまり栄えていない」という印象があることが多いです。

先述の3駅でいえば、長野駅東口(⇔善光寺口)、広島駅新幹線口(⇔南口)、土浦駅東口(⇔西口)が「栄えていない側」に該当します。

※画像はいずれも「JRおでかけネット」より

長野駅構内図

広島駅構内図

長野駅の善光寺口には、各方面への路線バス(東口からのバス発着もありますが、本数・路線とも少なめ)、さらに長野電鉄のホームもあります。長野駅に降り立った人の動線も圧倒的に善光寺口に流れます。東口方面には飲食店もほとんどありません。

広島駅については、八丁堀などの繁華街、あるいは原爆ドームや宮島方面へと向かう市電のりばが南口にあります。さらに広島東洋カープの本拠地であるマツダスタジアムへの動線も南口から。一方の新幹線口は駐車場やレンタカー店も多く、広々とした印象。今夏に訪れたときには、駅前一等地にサンフレッチェ広島のフットサルコートがあって驚きました。

土浦駅(構内図の画像は省略)についても、先述の桜町や亀城公園への動線は西口となり、駅ビルや路線バスのターミナルも西口にあります。東口を発着する路線バスはかなり少なく、やはりこちらも飲食店は西口より少ないです。

なぜこのように両側の出口で差が出るのでしょうか?それは、最初に述べたように、街の構造において鉄道が後出しだから、というところが大きく関係します。

鉄道の開業には、線路を敷くための土地が必要です。つまり初期の鉄道駅は「何もない場所」に置く必要があります。とはいえ利用者が見込めない場所に造るわけにもいかない。そのため、上記の3駅のように、昔の街の中心から「そこそこ近い外側」に駅を設置した、と考えるのが自然でしょう。

そしてその後の歴史のなかで街の中心から広がってきた市街地が到達した「栄えている側」と、その流れから線路で分断された「栄えていない側」が各駅にできたと考えられます。

ちなみにこの辺りの話、地理人こと今和泉隆行さんの著書にかなりインスパイアを受けています。

www.shobunsha.co.jp

こちらの本の第7章「都市の発達と成長・年輪を読み解く」にて相当詳しい解説がなされているので、ぜひ読んでいただきたいです。ここで取り上げられる金沢市の事例、地図付きの分かりやすい解説で、しびれます…。

鉄道は「嫌われ者」だった

現代の感覚では、「もうちょい城やお寺の近くに駅を造れなかったの?」となるかと思います。実際最近できた駅は、住宅地や商業施設に隣接させることで需要喚起を図ることが普通です。

news.yahoo.co.jp

ただそれはあくまでも現代の感覚。鉄道が誕生した明治時代には鉄道駅設置の反対運動なんかも起きていたみたいです。理由としては、
・蒸気機関車の騒音や煙が生活に支障をきたす
・(寺社仏閣の参道沿い店舗を中心に)需要喪失への懸念
が主にありました。

今年2022年は日本に鉄道が開業して150年の節目のため、この話を聞いた方も多いかもしれませんが、最初の鉄道開業区間(新橋~横浜間)のうち、新橋~品川間では多くの部分で海上に線路を敷設しています。これは途中に屋敷を構える薩摩藩などが鉄道敷設に反対し、陸上に線路を敷けなかったからだと言われています。

兵部省は通商上の利益よりも国防の方が重要であるとして鉄道敷設に反対し、同省の建物が品川八ツ山下にあったため、用地の引き渡しを拒んだばかりでなく、測量なども妨害したのである。
(老川慶喜『日本鉄道史 幕末・明治篇』)

また、成田山新勝寺や出雲大社といった有名な寺社仏閣へはかなり古くから鉄道路線が計画されましたが、いずれも参道の商店主からの反対が根強く、それぞれの最寄り駅として旧国鉄が開設した成田駅や旧大社駅などはずいぶんと中途半端な場所に建設されました。

ちなみに、このブログでも過去に触れていますが、善光寺と長野駅の距離についても「阿弥陀如来の四十八の願の中でも特に重要な『弥陀の十八願』にちなんだ」という説明がされますが、ぶっちゃけこれはあくまで表向きの理由なんじゃないか、と個人的には思っています。

www.sanmuofmusan.com

機関車の音はうるさいし煙もすごいし、参道のお店さんたちもうちらの商売を奪うなって言ってくるし…せや、阿弥陀如来様の話に絡めて良い感じにしとこ、的な話があったかは知りませんが、そんなもんじゃないでしょうかね。

真相のほどは定かではありませんが、そんなことを想像しながら歩いてみると、新しい発見があるかもしれませんよ。

まちの「パーツ」を見たら、ちょっと視点を広げてみよう

というわけで、途中話題があっちこっちへ逸れましたが、このように複数の都市の構造を一緒に比較するという見方も、ぜひ持ってみてほしいという思いから、このような記事も書いていこうと思っています。

「○○町の歴史」のような解説なら、もっと専門的に語る必要があるでしょうし、その道のプロのような方は沢山いらっしゃるはずです。でも正直、旅行先でその土地の細かい歴史とかを聞いても、大概の人にとっては「ふーん」で終わってしまい、発展がないような気がするのが個人的に引っかかる部分ではあります。

ぜひ、まちを歩くときの「視点」をたくさん持って、自分の住んでいるまちの何気ない日常から得られるものができたら嬉しいな、と思っています。こんな感じで、シリーズ化していく予定です。よろしくお願いいたします。

参考

・「『地図感覚』から都市を読み解く」(2019,今和泉隆行,晶文社)
・ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/modules/sightseeing/page/13
・「日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで」(2014,老川慶喜,中公新書)